62.明日はそこにあるはず 31話

「ごめんよ、ごめんなさいね、失礼しますよ〜」と手刀を切りながらアーヤンの隣に座ったガッキーは、丁度運ばれてきた生ビールのジョッキを持ち上げると、「まずは本日二日目にお疲れさまでしたー」、と音頭をとりグイッと喉に流しこんだ。

 得意げに話をはじめたガッキーの話には楽屋で漏れ聞こえていた以上の新情報は含まれていなかったので戦友たちは心のどこかで(つまんねえ…)と思っていたが、同じくくりの若手といってもガッキーは年上なので、それも言葉にできず、ミンソンたちは欠伸を噛み殺すのに必死だった。

「ガッキー。もうええわ、話がつまらへんし」

「え?」、とガッキーはアーヤンの顔を見た。

「その話、涼風さんが全部のステージにおんなじ名前の人で予約を入れてたちゅう話、みんな知ってんで。期待しとったのはそんな話ちゃうし、もうええよ、みんな飽きとるし」

 兵庫県伊丹市で生まれ育ったアーヤンの夢は自衛隊員となって日本国民を助けるヒーローになることだった。彼が六歳の誕生日を迎えようとしていた三日前に伊丹の街はグラリと揺れた。一九九五年一月十七日、阪神淡路大震災だ。その日からは恐怖の毎日だった。だが、その恐怖心を救ってくれたのは伊丹市内に駐屯している陸上自衛隊第三師団の自衛隊員たちの姿であった。

 そのとき少年はヒーロを知ったのだ。73式大型、中型のトラックに乗りこみ救助活動へと向かう自衛隊の姿を近所の同級生たちと見つめながら、僕もいつか…と瞳を輝かせた。その気持ちは中学生、高校生になっても変わることはなく強い男への憧れは日に日に強くなった。気がつくといつの間にか目尻がクイッと上がり鋭い眼光となり、ソプラノの美声少年は声変わりのときにドスの効いたハスキーボイスマンとなっていた。

 高校生のある日、友人の家でヒーロードラマを見ていると友人の兄が、これ無茶苦茶におもろいねんとビデオデッキにVHSテープを挿しこみ無理矢理に東映Vシネマの極道モノドラマを見せた。なぜか、アーヤンは完全にハマった。そこに新たなヒーロー像を見つけてしまい、役者への道を歩きはじめたいと思った。そのことを母親に告げると「あんたは地元のヒーローになるんやなかったん?極道になるために今日まで生きてきたの、おかあちゃんは悲しいで、悲しすぎるわぁ」と大泣きされた。

 上京と同時に俳優への道を目指したアーヤンだったが、極道モノのオーディションはことごとく落ちた。見た目と違い繊細、且つ心優しき男はキラキラ系の舞台が主戦場となっていき、ガッキーとはそれらの舞台で共演をしたことがある周知の間柄ということもあり、ミンソンたちの心の声の代弁者として「話がつまらへん」、と言葉を挟んだ。

 アーヤンのひと言でガッキーは、ごめん、と呟きシュンとした。店に入ってきたときの輝きは完全に失せていた。

【つづく】

令和2年7月1日