対照的な二人だった。
今年就職活動を控えた大学四年生の植松浩輔は、一年前、渋谷を歩いていたときに雑誌の編集者に声をかけられて読者モデルをやったことでなにかが目醒め、その昂ぶる気持ちは小さな灯火となってくすぶり続け、そして親に「就職をしないでモデルになりたい」、と言った途端、父親に出て行け、と一喝されて千葉の実家を追い出された。
その結果、この安アパートに辿り着いた明るく陽気な二十一才の男は一八六センチの身長が災いして自分の部屋の戸口や便所に入ろうとする毎に頭を何度もぶつけ、そのたびに「ごめんなさーい、無駄にでかくてー」と廊下に叫んだ。背丈もでかいが声もでかい男だ。
もう一人の新住人の鮫島慎一は、穏やかな笑顔の努力家の男だ。愛媛県伊予市で育った慎一は二才違いの兄の影響で中学生のときにダンスに興味を持ち、学校から帰ってくると兄と一緒に「ソウル・トレイン」のVHSテープを見よう見まねで踊る毎日だった。そのような兄弟を見かねた母親の口癖は「勉強せなバカになるんじゃよ、勉強しよ」、だった。兄は母親の言葉を受け止め、その後は勉強に励み地元の市役所に就職をした。相棒がいなくなった慎一だったが、それでも踊る楽しさを断ち切ることはできなかった。成績はクラスで最下位争いをするレベルとなり、高校卒業後は親の縁故で地元企業になんとか就職をさせてもらった。そして同時に踊る時間も終わった。
働くことの大変さと楽しみを覚えた社会人二年目には後輩社員もでき、社会生活のやり甲斐と責任も生まれたが、入社当時からの物足りさを埋められずにいた。そこで慎一は独学で密かに受験勉強をはじめたのだ。大阪か東京に行けば、今、心の中にポカリとあいた空洞を埋めてくれるものがあるはずと思いこみ、そのためにはこの町を飛び出すための絶対的な大義が必要だった。それは大学入学という免罪符だった。
仕事を終えてからの勉強はしんどかったが、それでも先の目標を見据えての格闘は慎一の性格に合った戦い方だったのかもしれない。目標があるから頑張れる。それが彼の口癖となった。
そして今年の春、学習院大学に入学した。両親と高校時代の担任はひっくり返るほど驚いた。「皇族さまたちが通う大学やないか!」。努力の男は「ほいでは行ってこーわい」と堂々と四国を飛び出した。
礼儀正しい慎一と無駄に明るい浩輔が加わった「やしろ荘」はさながら男子寮のようなアパートになっていった。大学三年生になった武雄の部屋には奥平が相変わらず入り浸り、困ったときの北別府は今日も文句を言いながら汚れた便所掃除をしている。
そして尚太郎は…アルバイト生活に明け暮れていた。ベンチから立ち上がると、夜勤の警備員のバイトへと歩きだした。
孤独を埋める手段もなく日々に流されるように生きていた。
令和2年7月4日