雨のち晴れ

11.  ウイロー売り

 どれくらいの時間、この公園のベンチに座っていたのだろうか…いや正確にはベンチで寝ていた。腕時計を見た尚太郎は大きな口を開けて伸びをした。

             

                     

 長野県上田の家を飛び出して三年目の東京での夏を迎えようとしている。

 「やしろ荘」住人たちの後押しを受けた尚太郎は東京宝映テレビの養成所に通うための入所金十万円を奥平と北別府から借りて、意気揚々と丸ノ内線の国会議事堂駅から歩いて十分ほどの稽古場へと向かった。

 稽古場には明日のスターを夢見る男と女、少年少女とその保護者たちで溢れていた。

 芸能界で生きていくことへの重さを肌に感じさせてくれたのは演技レッスンの先生の言葉だった。

               

「私は厳しいよ、ダメなものはダメ、何度でも鍛え直します。いいものはイイ。このお仕事はわかりやすい世界です。石にかじりついても食らいつく覚悟を持ってください」

              

 刺激溢れるその言葉に、なにがなんでもくらいついてやる、と明日を夢見た。

            

 レッスンが進んでいったある日、ダメなものとイイもののクラス分けが行われ、尚太郎はダメなものに選別された。

 尚太郎以外は全員小学生で、やることといえば早口言葉と外郎売の繰り返しだ。小学生たちは楽しそうだが尚太郎は腐った。

           

 次第に先生が嫌いになり、無断欠席をする回数も増え、養成所で三原じゅん子を見かけることもなく国会議事堂駅の改札を通ることもなくなり、尚太郎の夢は消えていった。

            

            

「やしろ荘」にも動きがあった。

「私が次に引っ越すときはワンルームマンションを買うとき」と豪語していた倹約家のサチ子だったが、入社半年後に会社の家賃補助システムを利用して風呂つきの鉄筋マンションへと意気揚々と引っ越しをし、アパートに女ひとりとなってしまうと知ったバンドマンのよしえは、「じゃあ私も」とサチ子とほぼ同時期に「やしろ荘」から姿を消した。

                    

 殺風景となりつつあった「やしろ荘」だったが新しい住人もやってきた。植松浩輔と鮫島慎一だ。

植松浩輔(寿里) 鮫島慎一(本田礼生)

  対照的な二人だった。

 今年就職活動を控えた大学四年生の植松浩輔は、一年前、渋谷を歩いていたときに雑誌の編集者に声をかけられて読者モデルをやったことでなにかが目醒め、その昂ぶる気持ちは小さな灯火となってくすぶり続け、そして親に「就職をしないでモデルになりたい」、と言った途端、父親に出て行け、と一喝されて千葉の実家を追い出された。

 その結果、この安アパートに辿り着いた明るく陽気な二十一才の男は一八六センチの身長が災いして自分の部屋の戸口や便所に入ろうとする毎に頭を何度もぶつけ、そのたびに「ごめんなさーい、無駄にでかくてー」と廊下に叫んだ。背丈も声もでかい男だ。

        

 もう一人の新住人の鮫島慎一は、穏やかな笑顔の努力家の男だ。

 愛媛県伊予市で育った慎一は二才違いの兄の影響で中学生のときにダンスに興味を持ち、学校から帰ってくると兄と一緒に「ソウル・トレイン」のVHSテープを見よう見まねで踊る毎日だった。そのような兄弟を見かねた母親の口癖は「勉強せなバカになるんじゃよ、勉強しよ」、だった。兄は母親の言葉を受け止め、その後は勉強に励み地元の市役所に就職をした。相棒がいなくなった慎一だったが、それでも踊る楽しさを断ち切ることはできなかった。成績はクラスで最下位争いをするレベルとなり、高校卒業後は親の縁故で地元企業になんとか就職をさせてもらった。そして同時に踊る時間も終わった。

              

 働くことの大変さと楽しみを覚えた社会人二年目には後輩社員もでき、社会生活のやり甲斐と責任も生まれたが、入社当時からの物足りなさを埋められずにいた。そこで慎一は独学で密かに受験勉強をはじめたのだ。

 大阪か東京に行けば、今の心の中にポカリとあいた空洞を埋めてくれるものがあるはずと思いこみ、そのためにはこの町を飛び出すための絶対的な大義が必要だった。それは大学入学という免罪符だ。

                  

 仕事を終えてからの勉強はしんどかったが、それでも先の目標を見据えての格闘は慎一の性格に合った戦い方だったのかもしれない。目標があるから頑張れる。それが彼の口癖となった。

                   

 そして今年の春、学習院大学に入学した。両親と高校時代の担任はひっくり返るほど驚いた。

             

「皇族さまたちが通う大学やないか!」

 努力の男は「ほいでは行ってこーわい」と堂々と四国を飛び出した。

                  

             

 礼儀正しい慎一と無駄に明るい浩輔が加わった「やしろ荘」はさながら男子寮のようなアパートになっていった。奥平は相変わらず武雄の部屋に入り浸り、困ったときの北別府は今日も文句を言いながら汚れた便所掃除をしている。

                   

 男たちの陽気な笑い声に包まれるアパートだが、そこには尚太郎はいなかった。

 ベンチから立ち上がった尚太郎は、夜勤警備のバイトへと歩きだした。夢を失い、孤独を埋める手段もなく日々に流されるように生きている。

            

                 

 深夜のビル警備のバイトはちょろかった。

 大手町にある某企業のビルは深夜になっても無人となることはなく、多くの社員たちが残業をしていた。一九八六年、時代は昨年からはじまったバブルという景気の波に乗り、人々は仕事に遊びに多忙を極めている。このビルからひと気が消えていくのは朝方の四時を過ぎた頃である。

 尚太郎は決められた時間になると懐中電灯を片手にビルの廊下や各階のフロアーやトイレ、給湯室の見回りに出かけた。

                

 やることはなにもない。

 給湯室の窓が開いていたら施錠をする程度だ。

 すれ違う社員に軽く一礼をして、次にフロアーに顔を出し、異常はありませんか?と問いかけ、そこにいる誰かが、大丈夫でーす、と抑揚のない声で言葉を返す。そのときに再び軽く頭を下げてフロアーを出て廊下を歩く、そして階段を上って次のフロアーを歩く、その繰り返しをするだけで体力も気も使わない仕事だ。

 このバイトを選んだ理由は夜の警備ということで時給が良いことと、その時間帯にはアパートに居たくないからだ。

 バイトの終わり時間が近づくと、ビルの屋上に出てうっすらと顔を覗きはじめる朝焼けを見つめるのが好きだった。夜と朝の狭間の空には今夜の終わりを告げる星たちが見え隠れしていた。フワリと頬にあたった風は生あたたかく初夏の到来を感じさせてくれた。

「あと二時間で交代か…」、と尚太郎は呟いた。

             

 帰りたくないな、あんなアパートに…。 

            

 尚太郎の気持ちは腐っていた。

 原因はわかっている。

 あいつらだ、浩輔と慎一だ。

           

                  

 奈緒美に続いてサチ子とよしえが「やしろ荘」を去ったときは寂しかったが、その穴を埋めてくれたのは浩輔と慎一の二人だった。

                   

 二人が入居してからのアパートには野太い笑い声と馬鹿笑いに興じる男たちの笑い声が常に交錯した。共同スペースは北別府が仕事で出て行くとすぐに汚れ、帰宅後の北別府が「みんなの場所なんだから掃除しろよー」と怒鳴り散らした。

              

 尚太郎は芸能ごとを夢見てる慎一と浩輔の存在が楽しかった。

 特に同い年の慎一とは馬があった。

 夢を語る慎一の言葉が好きだった。武雄や奥平や北別府には言えないことも慎一には相談ができた。

             

 それは慎一もおなじだった。

 尚太郎がバイトのない日には自分の大学に連れて行き一緒に学食で食事をしたり、「かまわんよ、誰がおってもわからんけん」と授業にも出席させた。

             

 尚太郎は授業の内容はチンプンカンプンだったが、大学生という空気に触れたことで、これが大学生か、これがキャンパスか…これが女子大生か…と興奮をした。

                

                

 ある日、「やしろ荘」にサチ子とよしえが遊びに来たことがあった。

「私たちがいなくなって寂しがっていないかなーと思ってね」と鍋の食材と一緒に階段をあがってきた。その夜は初対面となった新旧の住人が楽しく鍋をつつき笑いあった。

 それ以降、サチ子とよしえはちょくちょくと遊びに来るようになった。喜んでいた尚太郎だったが、彼女たちの目的が浩輔と慎一だとわかったときから、尚太郎の心はグラリと病みはじめた。

 食事の中盤からの話題はいつも浩輔と慎一の大学での話となり、その会話に社会人となったサチ子とよしえが「あーわかるー」「あるある、そういうことー」「私のときはねー」と参加して、そして、その過去話にみんなが笑った。

                   

 尚太郎は孤独になっていた。

 その会話に入っていけないのだ。

 恥ずかしかった。

               

 慎一に連れられて歩いた大学の体験しかしていない自分が恥ずかしく仕方がないのだ。ここにいるみんなは、あのキラキラとしたキャンパスのグリーンパークに腰を落として仲間たちとワイワイガヤガヤと騒いでいると想像するだけで辛くなった。

 終盤は決まって努力の男の慎一と無駄に明るい浩輔が話題の中心となり、この日はマイケル・ジャクソンに憧れてる慎一が覚えたてのムーンウォークをお披露目し、浩輔はつぶらな瞳にグイッと力を入れながら格好つけたモデルの歩き方を見せ、サチ子とよしえと奥平は黄色い歓声を送った。

                 

 尚太郎の冷めた心と目は、この場にいることを強く拒んでいたが、その気持ちを理解する人間はいなかった。愛想笑いをしながら辛い辛い時間だけが過ぎていた。

              

  フトした拍子で話題が尚太郎へと移った。

「で、尚太郎くんはその後、どうなの? 役者への夢、頑張ってるの?」、とサチ子が聞いてきた。

              

「え? まあ、なんとか」

「いやー聞くも涙、話すのも涙だぜ。小学生と一緒に、なんだっけ?ウイロン売りだっけ?一生懸命にやらされたんだよなーハハハ」。武雄が豪快に笑った。

「外郎売りです」

「ウイロー?なんなの、それ?」とサチ子。

「演劇の基本というか、滑舌の稽古みたいなもんです」

「尚太郎、サチ子さんたちに聞かせちゃれよ。いや、これが面白いんじゃ、なにを言いよるのかさっぱりわからんのじゃけど、なにかを売って歩きよるんじゃ、ほら、尚太郎、やっちゃれよ」、と奥平が面白そうに尚太郎をあおった。

「いや、いいですよ、恥ずかしいです、フフ」

「なにを照れとるんだ、あの頃、いっつもわしらに見せてくれたじゃろ、今さら照れるな照れるなぁ〜ハハ」

「そうですよ、僕は明日は仕事があるので眠いと言ってるのに、困ったときの北別府さんでしょーって叩き起して『拙者親方と申すはーお立合の中にご存知の方もござりましょうがーお江戸を立って二十里上方ー相州小田原ー一色町をー』、フフフ、覚えちゃいましたよ」、と北別府が調子にのってやってみせた。

                  

「やだーなにそれー」と笑い出したよしえに、北別府は大げさな手振りをつけながら「これを歌舞伎ぽくやるんです、夜中の二時にですよー」と教えた。

            

 「二時ぃぃー? 丑三つ時じゃん、怖いよー」

 サチ子とよしえが声を揃えて笑った。

「えー見たーい見たーい。尚太郎くん、見せてよー」とサチ子は手を叩いて喜び、宴席者たちは手拍子と「ウイローウイロー」の掛け声で尚太郎をあおったが、尚太郎は俯いたまま黙っていた。その場がなんとなくシラけた。

           

 そのとき慎一が口を開いた。

             

「拒んどる理由がまったくわからん、やればええやないか、みんなが見たがっとるんじゃけん、楽しませちゃればええやないか」

           

 尚太郎は慎一を睨み見た。

           

 おまえになにが分かるんだ、俺は小学生のガキたちとそれを何回も何十回もやらされたんだぞ。あの先生はあのとき、ダメな人は何度でも鍛え直すと言ったのに俺はなにも教えてもらうことなく…おまえになにが分かってるんだ。

          

 室内にイヤな空気が流れた。

突然、柏手をポンと叩いたのは無駄に陽気な浩輔だった。

           

「そんじゃあ俺が披露しまーす、北別府さん、最初のセリフ、なんでしたっけ? 教えてください」、と言って、北別府から口立てされたうる覚えのセリフに歌舞伎役者の隈取りを真似た顔と手振りと入れながら「拙者親方と申すはー」とはじめた。だが空気を読めていない陽気な男の頑張りはその場に浮いた。

「バカにするなっ」

 尚太郎はいたたまれず武雄の部屋を立ち去った。

            

  慎一が部屋に戻った尚太郎を追いかけて「なにを怒ってんぞな?」と聞いた。

「出てけよ」

「あんな態度はみんなに失礼だ、戻って謝ろう、な、そうしよう」

「…」。尚太郎は答えなかった。

「そなぁにイヤじゃったのかよ、その養成所、ウイロー売り」

「外郎売だ」

「なにが違うんぞな? 一緒じゃろが」

「全然違うよ」

「どう違うんぞな?」

「うるさいよ、いいんだよ、そんな話はどーだっていいんだ、出て行けよ、ひとりにさせてくれよ」

 苛立ちの尚太郎は床に置いてあった読みかけの少年ジャンプを手に取ると壁に投げた。

               

 小さく息を吐いた慎一は感情を荒げることなく、ゆっくりとその言葉を尚太郎にぶつけた。

「尚太郎、おまえはどがいな努力したんぞな?」

                   

 慎一は少年ジャンプを拾うと、漫画本で溢れてる小さな本棚に、それを立て掛けながら言葉を続けた。

「役者になりたいっていうわりには勉強してないよな、本読んでないもんな、頭だけで夢語っとったって、なにもはじまらんのじゃぞ」

              

「面倒くさいんだよーおめえはー」、尚太郎は吠えた。

「俺はやったんだよ、やったんだ、やったんだよ!東京は魔物なんだよ、東京に出てきたばっかりの、なにも知らない奴が偉そうに言ってんじゃねえよ」

             

 慎一はこれ以上の話し合いは無理だと思ったのか、フーンと言って立ち上がると戸口で振り向きー。

「言い訳は言うな。やってないよ」と言った。

「このやろー」

 尚太郎が飛びかかった。

             

 武雄の部屋から二人の様子をうかがい聞いていた奥平と北別府と浩輔が、わっと部屋を飛び出し、廊下で取っ組み合いとなった尚太郎と慎一の仲裁に入った。「よしなさいよバカ」、と叫ぶよしえの声は男たちの怒声にかき消されたが、それでも何度も叫んだ。そんな中、我関せずと部屋で酒を飲んでる武雄に気づいたサチ子が呆れたようにコップを取りあげた。

「なにやってるのよ、とめてきなさいよ」

「平気平気、今日は尚太郎の反抗期だ、ハハハ」

【つづく】