12. 尚太郎、やってみなはれ
のぼりはじめた太陽が東京の街により一層の輝きをもたらせ、眩しい光が、今日も頑張れよと街を照らしはじめた。
だが、そのあたたかな光はビルの屋上に佇んでる尚太郎には無縁の光なのだ。
あの日以来、アパートには居たくない。
尚太郎は、夜間のこのバイトを二週間前からはじめた。
朝七時に交代警備員たちとの伝達を行い、あとは帰るだけだ。ロッカー室で時間をかけてゆっくりと私服に着替え、ビルを出てもゆっくりと歩き朝食を目指す。コンビニの弁当の場合は公園で、贅沢をしたいときは牛丼屋に入った。ゆっくりゆっくりと午前の時間をつぶした。理由はこのまま部屋に戻ると武雄たちと会ってしまうからである。時間をつぶして、自分の部屋に戻るのは昼前後と決めていた。
さてと、今日はどうしようかと覗いた財布の中に千円札が二枚と小銭が見えたので、この日は贅沢をしようと決め、牛丼屋へと向かった。
燃えるような夢を失った今の尚太郎には睡眠と食事がなによりの楽しみの時間となり、並にするか大盛りにするかを考えるだけで足取りが軽くなった。
そのときフト、あの言葉が聞こえた。
耳の奥にこびりついたあの言葉が渦を巻くように襲ってきた。
「頭だけで夢語っとったって、なにもはじまらんのじゃぞ」
「尚太郎、おまえはどがいな努力したんぞな?」
あの日、慎一の発したひと言。
やったんだ、と吠えた尚太郎だったが、本当にそうだったのだろうか…。牛丼屋の店前で尚太郎の足は止まり、「くそー」と呟くと、贅沢をする気持ちが失せた。
高円寺北口改札を出て、見慣れた景色となった商店街を歩きながら、一日も早くあのアパートを出たいと思っていた。不動産屋の窓ガラスに貼りついてる物件情報を眺めることが癖になっているが、それは夢の話にすぎないと分かっている。今の「やしろ荘」は奈緒美と大家さんの信頼があったので後釜入居できたが、新たな場所に引越しをするとなると保証人が必要なのだ。家出をしてきた尚太郎には、そのような人はいない。
自分自身の今置かれている環境が恨めしく、そして親からの仕送りや時々のバイトで得た金で優雅に生活を満喫してる大学生の慎一たちが憎らしくて仕方がなかった。
腐った気持ちで「やしろ荘」の階段を上ろうとした尚太郎は二階の廊下に人の存在を感じてハッとなった。くそ、武雄さんだな、大学にも行かずにゴロゴロとしやがって…などと思ったとき、懐かしい声が階段上から聞こえてきた。
「尚太郎ー元気だった?」
見上げると、そこに奈緒美がいた。
奈緒美は一年二ヶ月振りとなる思い出の部屋を見渡すと、大きな溜息をひとつ吐いて「汚ったない部屋」と笑った。「ね、よくもここまで汚せたね、あのねーここは私の聖地だったんだからね」。そう言うと窓を開けて万年床の布団を干しはじめた。
「尚太郎、なにをぼーっと見てるのよ?掃除、あんたもやるのよ、ほらほら」。
尚太郎は奈緒美といることが楽しかった。
この人と一緒にいると元気になれる。出会ったときからそうだった。あのとき、奈緒美に連れて行かれた劇場で芝居に触れたことが自分の夢へと繋がったのだ。その奈緒美が今、目の前にいて、ひとりで喋ってひとりで笑っている。その顔には今を生きてる充実感と輝きがあり、その笑顔を見ているだけで元気になれるのだ。
「ま、こんなものかな」
埃ひとつなくなった部屋を眺めた奈緒美は大きく息を吐くと、共同洗面所にバケツの水を捨て、絞った雑巾を干すと「行くよ」と玄関へと歩きはじめた。
「どこに行くんですか?」
「ゴハン、お腹ペコペコー」と奈緒美は笑った。
商店街を歩いてるときに店のウィンドウの大きな時計が夕方の時刻を指してることを知った尚太郎が思わず「あっ」と声をあげたので奈緒美が「どうしたの?」と聞いた。
「実はバイトの時間で…」、尚太郎は申し訳ない顔を見せた。
「いいよ、休んじゃいなよ」。奈緒美は笑う。
「え…?」
「私が大阪から来てんだよ。どっちを選ぶの?私とバイト」
赤電話の前で尚太郎は脂汗をかきながらバイト先の社員に何度も頭を下げた。
「はい、急にお尻が痛くて…今電車を降りてトイレに行ったらパンツに血がついてて…あ、はい、痔です。痔が悪化して歩くのも痛くて…くしゃみしても痛くて…今から病院に、はい…すみません、今日はお休みを…はい、すみませんでした」
汗で滑り落としそうになった受話器を両手で支えながらゆっくりと電話機に置いた。その姿を見ていた奈緒美がケタケタと笑った。
「いい芝居してんじゃーん、上手ーじょーず」
「(ゴクリ)ムチャクチャにうまそう〜」
ジューと焼けるハンバーグを目の前にした尚太郎の喉が何度もゴクリと鳴り、「いただきまーす」の両手を奈緒美と合わせるのが待ち遠しかった。店に入ったとき、お洒落な空間にも緊張したが、スープとサラダがおかわり自由と聞いて、なんて素敵な店を奈緒美さんは知っているんだと驚いた。
「VOLKS。このお店の第一号店は大阪なんだよ」と奈緒美が教えた。
「美味しい?」
「ハイ!美味しいです」
「ハンバーグ、もう一個食べる?へへ〜私、社会人なんだからおごってあげる」
「いいんですか?」。遠慮がちに言った尚太郎の言い方は、お願いしますに等しい。
二枚目の鉄板ハンバーグを半分ほど食べたときだった。尚太郎の腹が落ちついてきた頃合いを見計ったように奈緒美が唐突に聞いてきた。
「勉強してる?」
「え?」
「勉強…ですか?」
「そ、役者になるための勉強、本を読んだり、舞台を観に行ったり博物館や美術館に行ったりしてる?」
「博物館?」
役者の勉強に博物館や美術館に行くという理由が解らないので、尚太郎がきょとんとした顔を見せると奈緒美は四ヶ月前の大阪の劇場での出来事を面白おかしく話はじめた。
その舞台は人気歌手が幕末の悲劇の志士として主役をやるとのことでマスコミも取りあげ、東京、名古屋、大阪、福岡の公演チケットは販売と同時に全てが売り切れとなった話題の舞台だった。
「私の周りって口の悪い職人さんが多いのね。舞台を袖から見ながらその人が言ったの。『あの兄ちゃんはあかん。現代の爽やかな兄ちゃんがタイムスリップして幕末に存在してるだけや…あかんなー』って」
尚太郎は素朴な質問をした。
「なにが、ダメなんですか?」
「私たち裏方はね、その時代の美術や装置を一生懸命に作るの。衣装さんも、結髪さんも、ちゃんとした役者も幕末という時代を勉強するの。でも主役だけが感覚だけを武器にして幕末の舞台にいた。でね、私の上司はこう言ったの」、奈緒美は尚太郎に顔を近づけて、「あいつの人生はあと三年やな」と囁いた。
「・・・」尚太郎の表情が固まった。
店の入口の公衆電話で奈緒美が電話をしているとき、尚太郎は思い出していた。
あの日の慎一の言葉を。
「役者になりたいっていうわりには勉強してないよな」
「本読んでないもんな」
「頭だけで夢語っとったって、なにもはじまらんのじゃぞ」
そういうことだ…自分のバカさ加減を知った…。
それから一時間後に、尚太郎は、奈緒美と上野の東京国立博物館にいた。
これまでの人生において縁もなければ行きたいと思ったことがなかった場所に大勢の同年代がいたことに驚いた。法隆寺宝物館の展示物を食い入るように見ながら、すごいな〜ああ〜そうなんだ〜うわあ〜と何度も感動の言葉漏らす奈緒美の姿に美術家としての向上心を感じ…、そして自分の未熟さを痛感した。
博物館を出ると奈緒美はンンンーと両手を空高くかざしながら「ありがとー法隆寺ーお利口になりましたー」と叫び、天にかざした左手首の腕時計を眺めて「ウン、いい時間だ、最終に間に合う」と笑った。
「最終?今日大阪に戻っちゃうんですか?」
「そりゃあそうだよ、明日仕事だもん」
このとき尚太郎は察した。
奈緒美は自分のことをサチ子かよしえから聞いて、自分を励ますためだけに日帰りで来てくれたことを…。
東京駅で最終の大阪行きの切符を買った奈緒美は、次に弁当を二つ買うと、ひとつを「ハイ。今夜のごはん」と尚太郎の胸に押しつけた。
「尚太郎。いい友だちだと思うよ、その人」
「? 誰ですか?」
「殴り合いになった人。尚太郎のことを心配してるから嫌なことを言ってくれたんだよ」
「…そうだと思います」。蚊の鳴くような声で答えた。
そのとき、突然構内が騒然となった。
若い男たちの怒声と叫び声と足音が改札口に響き、二人がなにごとかと振り返るとハッピ姿とハチマキをした十数人の男たちが改札に押しかけ、乗降してきたアイドルに向かって声をかけはじめた。
「お帰りなさい」「お疲れさまでした」「次のコンサート楽しみにしてます」などなど大きな声で言葉をかける男たちにマネージャーの男が「ハイありがとうねー駄目だよーこれ以上近づいちゃ危険だからな、応援ありがとうー」と叫びながら小柄な女の子をガードしながら八重洲口へと急いでいる。
尚太郎と奈緒美がその光景を眺めていると、その輪を目指してひとりの男が、小さな箱を抱えながら息荒く走ってきた。
「待ってー待ってープレゼントを買ったんですー」
目的のアイドルを目指し、まっしぐらに走ってきた男は、その動線の途中にヌボッと立っていた尚太郎とぶつかって大切に抱えていた小さな箱を落としてしまった。箱から飛び出したショートケーキが歪な姿となって講道に転がり、それを暫し見つめた男は悲壮感この上ない顔を尚太郎に向けて叫んだ。
「なんだよー」
涙目になった目元を袖で拭うと、アイドルの元へと走り出した。
尚太郎と奈緒美は目を合わせて含み笑いをした。
「俺が悪いんですか?」
「すごいよねー親衛隊。あの人たちも熱く生きてるんだよね〜」と微笑むと、不慣れな関西弁を使って「尚太郎、やってみなはれ」と言った。
不思議そうな顔をしてる尚太郎に奈緒美は教えた。
「これね、松下幸之助の言葉」
「松下幸之助って…松下電器の?」
「そう、あの会社の社風なの。やってみなはれ、やらなわからしまへんで〜。いい言葉よね〜私もその精神でやってる。尚太郎、踏ん張るんだよ」。そう言うと改札へと向かった。
その去り方は、あの日「やしろ荘」を去っていったときとおなじで、スマートだった。
鋏を入れた切符を駅員から受け取った奈緒美は振り返ることなく歩いていく。
尚太郎の目にはその姿が涙で霞んで見えない。
もっともっと話がしたい…もっともっと元気をもらいたいんだ…イヤだイヤだ、話がしたいんだ。尚太郎は境界防護となってる鉄柵へと走り奈緒美に叫んだ。
「俺ダメなんです、全然ダメなんです、なんにもできてないし、していないし、そのくせひとりでスネてて、ダメなんです」。ヒックヒックとしゃっくりをあげる尚太郎はまるで小学低学年の子供のようだ。
階段を上りかけた奈緒美が振り返って見ている。
「そういうことをおっくんや北別府さんに言えばいいのよ、あの人たち、みんなあなたのお兄さんなんだよ。あんたが勝手に心を閉ざしてるだけじゃん」
「だけど(ヒック)大学に行ってないのは俺だけで(ヒック)」
「いい加減にしなさい!」
奈緒美は怒りの言葉を叫んだ。
「ばかじゃないの、あんたは」
奈緒美の目は悔しさに滲んでいる。
「コンプレックスなんか、みんな持ってるの、あるの、誰もがあるの」
「・・・」
「毎日毎日大阪で、アホんだら、ボケカス、ド新人、センスなし、東京に帰れ、コテンパンにやられてるの、だけどね私は絶対に負けないの、踏ん張ってるの、もう一度言うよ、私は絶対に負けないから。絶対に東京に戻ってくるから」
奈緒美の綺麗な瞳が悔し涙で濡れている。修行をしてくると言って旅立った大阪の地で揉まれてる奈緒美の一年と二ヶ月の悔し涙だ。
最終の大阪行きを知らせるアナウンスが響き渡った。
「やっばーい」、奈緒美は涙をぬぐいながら階段を駆け上った。
尚太郎はその姿を、奈緒美が見えなくなった階段を見送った。辛い日々を過ごしてる奈緒美が自分のためにやってきてくれたことを知った。ひとりではないことを教えてもらい、何百回も「ありがとう」を伝えたい人が自分にいてくれるだけで心があたたくなり、「ありがとう」を言いたくなり、改札を飛び越えて階段を駆け上った。それを見ていた駅員が「おい」と追いかけた。
ホームに着くと車両の扉が閉まったところだった。どこだ、奈緒美さんはどこにいるんだ、尚太郎はホームを走り、奈緒美を探したが見つけることはできない、窓に向かって「ありがとうー」を叫んだ。どこかの車両にいる奈緒美に届けとばかりに叫んだ。「ありがとうございます、ありがとうございます、踏ん張ります、ありがとうございます、踏ん張ります」
見知らぬ乗客たちは呆然と、ある人はクスクスと笑いながら尚太郎を見ていた。走り出した車両に尚太郎は叫び続けた。最後の車両尾がホームから消えていくまで泣き叫んだ。
追いかけてきた駅員がその姿を優しい瞳で見ていた。
階段を降りてきた尚太郎が、その二人に気づいた。
改札付近に佇みながら頭上の電子掲示板を見上げてる二人の女性はギターケースを肩に担いだよしえとOL姿のサチ子だった。
「あ〜間に合わなかった」
「会いたかったなー奈緒美に。ウチの会社の会議、長すぎるんだよねー。てか、奈緒美から東京にいるよって電話もらったのは夕方だよ、急すぎだよ」とサチ子はボヤいている。
「どうも…」
声をかけた尚太郎をサチ子とよしえが見つめた。
尚太郎にとって気まずい再会だった。あの日の醜態を見せたことで会うことを避けてきたので恥ずかしさと気まずさが入り混じっている。
声の主の尚太郎を見たサチ子が「なんで尚太郎くんが奈緒美を独占してるのか意味がわかりませーん」と軽口を叩いたことで、そのわだかまりを一瞬に消してくれた。
二人の女性たちは口々に「バーカ」「単細胞」「弱虫」「スネ男」「寂しがり屋」「かまってほしいコ」と思いつくままの単語を面白そうに尚太郎に向けて喜んだ。
「やしろ荘」に着いたのは夜中の十一時を回っていた。
一階の下駄箱から階段を見上げると武雄たちの笑い声が聞こえてくる。今夜もバカな話をして笑いあってる陽気な住人たちだ。この何ヶ月の間で武雄の酒量は増えた。奥平の広島の実家の酒蔵を上手に活用してタダ酒を無尽蔵に飲むことを覚えてしまったようだ。日に日にダメになっていく典型的な大学生だ。
下駄箱で躊躇している尚太郎の背中をコツン、コツンと指で押したのはサチ子とよしえである。
「謝るんでしょう、もう迷わないの」
「男なんだから、ここはロックだよ」
「ごめんなさい」
「やしろ荘」の男たちは頭を下げて詫びた尚太郎を歓迎した。
殴り合った慎一は特に喜び、無駄に陽気な浩輔は意味もなく「バンザーイ」と叫び、北別府は「罰として明日は便所掃除だからね」と言い、「男じゃ、尚太郎、それでこそ男じゃ、わしゃあーそがいなわれがぶち好きじゃ、チューさせてくれ」と酔ったふりをして抱きつき、武雄はベロンベロンになりながらも「反抗期だーハンコウキー」と笑った。
いつもの変わらぬ住人たちの笑顔に囲まれた尚太郎は「ハイ、反抗期でしたー」と笑顔を見せた。
そのときだった。
扉が乱暴に叩かれた。
皆がドキンと振り返ると、目が血走った男が立っていた。
危険な雰囲気を感じさせる男は一階に住んでる者だと名乗ると「おまえら、毎晩毎晩うるせえんだ、え?誰からしめて欲しいんだコラ」と低く唸った。
部屋に戻ると開けっ放しの窓に布団が干しっぱなしとなっていた。奈緒美が干してくれた布団を畳に敷いた尚太郎は倒れこむように横になった。
この時間帯に眠るのは何日ぶりだろう、そういえば今日は徹夜だ…。そんなひとり言をこぼすと鼾をかいて深い眠りについた。
夏の到来を予感させる湿り気を含んだ布団だったが、心がポカポカとあたたい夜となった。