明日はそこにあるはず

6.ヌードな夜

                    

 奈緒美は引越しの準備を終えた室内を眺めていた。

「やしろ荘」で暮らした四年間の思い出の部屋には、近所の酒屋やスーパーからかき集めた十四個の段ボールが積まれ、押し入れには今夜眠るための布団が畳まれていた。

 明日の朝、あの布団を布団袋に仕舞えばこの部屋とはサヨナラか…。それにしても十四個って…荷物少ないなーと呟いて、奈緒美はクスリと笑った。

「奈緒美さーん、ごはんの準備できましたよーみんな待ってますよー」。二十歳になった尚太郎が明るい声とともにやってきて、フトその室内を見つめた。

 何度か遊びにきた奈緒美の部屋は女子大生というより芸術の香りが漂う部屋で、何より尚太郎を元気にさせてくれた思い出の部屋だった。殺風景となった四畳半の部屋を見つめながら尚太郎は呟いた。

「本当に出て行っちゃうんですね」

「うん、就職したからね」

「寂しいな…」

「とか言っちゃって、早くこの部屋に住みたいと思ってるんでしょうー」

「そんなことは…」。尚太郎は口ごもった。奈緒美の後釜として明日から尚太郎がこの部屋の住人となり、自分の城を持てることの楽しみはあるが、それでも奈緒美との別れは寂しいのだ。

 一年前のあのとき。

 あの一件以来、人と会ったり外を出歩くことが出来なくなった尚太郎に「ね、バイトをやってよ」と奈緒美が声をかけた。

「いえ、僕、あの、外に出るのは…」と縮こまった尚太郎に

「平気平気、外に出なくても大丈夫、この部屋でできるバイトだから」、奈緒美は微笑んだ。

「私のためにヌードモデルになってよ」

「え? ヌードって、ええ!ヌードですか!」

 美大生の奈緒美には裸体の男のデッサンは慣れたものだが、尚太郎は恥ずかしくて仕方がなかった。畳の上に敷かれた絨毯の上で尚太郎は両腕を床につけ、胸を反らし、右足をピンと伸ばし、立膝にした左足姿を保ちながらじっとしていた。立膝のおかげで奈緒美からは股間こそ見られていないが、とてつもなく恥ずかしいのだ。

 スケッチをしながら奈緒美が話しかけてきた。

「明日までに課題をね、出さなきゃいけないんだ、男のヌードデッサン。この間、授業でモデルさんを呼んでくれたんだけど、私そのとき行けなかったんだよねーそしたら昨日教授に呼ばれて、提出をしないと単位をあげないって脅されて、あ、動かないで、じっとしてて」

「は、はい」

「私、苦手なんだよねー人間を描くの」

「聞いてもいいですか?」

「なに?」

「奈緒美さんはどうして美大に行こうと思ったんですか?」

「プロになりたいって思ったから」。鉛筆をスッスッとスケッチブックに走らせながらサラリと答えた。

「プロ?どういうことですか?」

「銀行員とか公務員とか証券会社とかスチュワーデスとか学校の先生とかいろんな仕事があるじゃない。でもそうじゃないんだよなー私の人生は、なんていうかなーハデっていうか、賑やかっていうか、ま、OLじゃないなーって。そんなことを考えてたら美大とか藝大に行けば、将来OLやりまーすって言えなくなるし、なんかそういう感じ、フフ」

「それ高校生の時に思ったんですか?」

「そうだよ」

「そんなことを考えて受験勉強とかしてたんですか?奈緒美さん、頭いいんですね、とてつもなく深いです」

「尚太郎くんもおんなじじゃん、役者になりたいって、それってプロになりたいってことなんでしょー、それとおんなじだよ、あ、だめだめ、動かないよ」

 奈緒美ともっと話をしたかったが、絵を描き終えるまで黙っておこうと思った。すると、そこにサチ子が入ってきて「あー私も描きたーい」となり、尚太郎の正面に座った。チンチンが丸見えの位置だった。異常に恥ずかしくクネクネと体を動かすたびに、動かないでと言われた。

「尚太郎、動いちゃダメだってばー」

「尚太郎くん、じっとしてて」

「尚太郎、大きくなってきてるよ、我慢するのよ」

「尚太郎くん、これは芸術なんだからエッチなことを考えるのはダメだよ」

 スケッチブックに鉛筆をシャッシャッと走らせながら奈緒美とサチ子はそう言うが、尚太郎は心の中で叫んでいた。ムリだよー大きくなっちゃうよー。

 尚太郎はあの日の出来事を…。奈緒美の部屋を見つめながら思い出していた。

 あのとき、対人恐怖症となりつつあった自分を奈緒美さんとサチ子さんは、励ましてくれていたのではないだろうか。そしてヌードモデルをやったことでその夜の「やしろ荘」の住人たちは大笑いとなり、その話題の主役となったことで孤独からの脱出ができたのだ。

 感謝してもしきれない奈緒美が明日、いなくなる。そう思うと悲しみが増した。だが、それは尚太郎の感傷であり、奈緒美は自分の夢のために旅立つのだ。

 奈緒美の就職戦線はまさに戦いだった。時代はバブルで「売り手市場」と言われていたが、実は企業側も強気で、キミじゃなくても募集すれば人材は他にもいるんだよ、という空気があった。第一希望、第二希望、第三、第四と落ち続けた奈緒美だったが第三希望の舞台制作会社から補欠募集の連絡をもらい、その面接時に「勤務地は大阪支社になります、これを承認してくれれば内定を出せますが、どうしますか?」と聞かれ、縁も所縁も憧れもなかった大阪の地だったが、それでもその場所には奈緒美の夢があった。そして元気よく返事をしたのだ。

「ハイお願いいたします」

 そうやって勝ち取った就職先だった。

 奈緒美は明日を夢見て「やしろ荘」を去っていくのだ。今夜はお別れ会だ。武雄さんの部屋には仲間たちが待っている。尚太郎は悲しみの感情を封印し、今夜はトコトン楽しみたいと思った。

【つづく】