さよなら父さん

2.都会の女編

             

 上野駅に着いたのは朝のラッシュ時だった。

 改札を抜けて山手線のホームを目指すと駅の構内は誰もが階段を早歩きで登り、戦場に向かう兵士のように殺気立っていた。もう無理だろと思われるパンパンの満員電車に人々は体を滑りこませ、駅員がその体をギューギューと押しこみ扉がガァーッと閉まっていく。さあ行ってらっしゃいとばかりに電車が走り去ると、次にすぐさまやってきた電車でも同じ光景が繰り返された。

「都会だ…」、尚太郎は圧倒されていた。

 山手線のホームで呆然と佇んでる尚太郎に通勤客と通学生たちが次々とぶつかってくる。ぶつかっても誰も謝ることはない。そのクールさにも尚太郎は都会を感じた。

 目的地は武雄がいる高円寺である。

 東京で大学生活を楽しんでる武雄が頼りだった。武雄とは何度も文通を交わしていて、その文面にはいつも、東京はいいぞ、東京は楽しい、尚太郎おまえも東京に出てこい、家を継ぐのは大学や専門を卒業したからでも遅くない、青春は一度きりだ、と誘惑の文字が並んでいた。

 大学生となった武雄が夏休みで帰省したとき、劇的に洗練された都会人の雰囲気よろしく、語尾の端々に「じゃん」とか「じゃない」「だぜ〜」と都会人ならではの言葉を恥ずかしげもなく使うその姿に尚太郎は衝撃を受けたのを覚えてる。

武雄:石倉良信

 上田にいた頃はどことなく野暮たかった男が四ヶ月程度の東京生活でここまで変わるのか、東京おそるべしだ、武雄さんはこの先の一年二年でどこまで変わるのだろうか…。武雄の姿が羨しかった。

 武雄が暮らしてる高円寺に行くには新宿で赤い電車の中央線に乗り換えなければならないのだが上野から新宿に行くための山手線の「外回り」と「内回り」は、どっちに乗ったらいいんだ? ええい、どうにかなるだろうと外回りの山手線に飛び乗った。

 満員電車だった。

 都会だ、これは都会だ。今、俺は東京を体験中だー。尚太郎の気分はポッポーとなった。

 高円寺の改札を抜けるとロータリーに交番があったので、武雄の住所を見せ、行き方を教えてもらった。商店街を抜けた二本目の脇道を入ったところに「やしろ荘」はあった。武雄からの手紙には「やしろコーポ」と書いてあったが本当の名前は「やしろ荘」だと知った。

 尚太郎はその建物を見上げながら胸を躍らせていた。ここからオレの一度きりの青春がはじまるんだ。

               

 「203」。

 手紙の裏に書かれてる武雄の部屋番号だ。部屋は二階だとわかるのだが、二階へと上がるための階段はここで良いのかと悩んでいた。木造の階段は一階部分に上田清明小学校と同じような靴箱が両脇に並び、そこには男物女物の靴がずらりと詰め込まれていて、靴泥棒がいたらお好きなのをどうぞ、というほど無防備な玄関だった。

 佇んでいると階段を降りてくるスーツ姿のサラリーマンが、なにキミ?という顔をしたので尚太郎が武雄の名前を出すと

「ああ、彼、まだ寝てんじゃないのかな?」と二階を顎でしゃくった。

サラリーマン:武田知大

 共同玄関のアパートは上田では馴染みはなかった。

初体験だ。尚太郎は靴を脱ぎ木造の階段に足を乗せて体重をかけた。段数を数えると十三段、イヤな数字だなと思った。一段踏みしめるごとにギシッと音が鳴った。

二階に上がるとドンと真ん中に廊下があり、右側に三つ、左側に二つの扉が見えた。突き当たりには共同洗面所とその左脇に共同便所があり、共同洗面所の窓からの日差しが廊下を照らしていたが朝の太陽が入るだけで午後になると暗くなることは想像ができた。

得体の知れない建物に入ってしまった…。

 武雄さんはなんつう所に住んでるんだよ…と、尚太郎が憂鬱になったときのことだった。

 廊下に突然、女の奇声が響き、うわっと振り返ると右側の部屋の引き戸扉が勢いよくガラガラーと開くと下着姿の女が

「寝坊しちゃった、まずいよまずいよ」

と叫びながら共同洗面所で顔を洗いだした。続いて別の部屋の引き戸扉からはパジャマ姿の女が現れ、洗面所の女に

「おはよー」

と挨拶をして共同便所の扉を叩き

「あーん、入ってるー」

と泣きそうな声をあげたと同時に便所の扉がダンと開き、太ももを露わにした大きなTシャツ姿の女が現れ、そしてパジャマの女は便所に駆けこんだ。

突然の三人の女たちの出現に尚太郎の心臓と脳内はいっきに舞い上がった。

釘付けだった。

下着とTシャツ姿の二人の女の後ろ姿に尚太郎の目は釘付けとなった。妹、絵里子の下着姿とは別物だ。シミーズ越しにはっきりと大人のパンツが透けて見える。

 いいのか、いいんですか?

こういうのをタダで見せてもらって?

「いいーんです」。

天の声が聞こえた。

便所から出て、手を洗いはじめたパジャマの女が尚太郎を見て「あ…」となる。

「やだー尚太郎くんじゃん」

尚太郎を見て明るく笑った女は奈緒美だった。

一年前、原宿で待ち合わせをして、尚太郎に夢を与えるきっかけとなる舞台へと連れていってくれた奈緒美が懐かしそうに駆け寄ってきて、「どうしたの? あ、春休みで遊びにきたんだ。ちょっと待ってて」、そう言って武雄の「203」の扉をノックしはじめた。

 家出をしてきたとは言えなかった。

 奈緒美は203の扉を何度も叩いた。

「武雄くーん、起きてるー? 起きてー尚太郎くんが遊びに来たわよー」。ノックをするたびにノーブラと思われる奈緒美の胸が上下に揺れ、尚太郎は静かに興奮していた。

これが都会だ…東京なんだ…。

そして(武雄さん、ずーっと寝ててください)と願った。

           

【さよなら父さん 夢追いたちとの遭遇編 へつづく】