1.家出編
午前二時。
卒業式を一ヶ月後に控えた高校三年生の尾上尚太郎は二階の自室で考えていた。
「尾上家具」といえば、尚太郎が生まれ育った長野県上田の住民なら知らない者はいないほど名の知れた老舗の会社だ。
大正七年、尚太郎の祖父は農家の九人きょうだいの末っ子として生まれたが口減らしのために、小学校には行かせてもらうことなく松本市の家具問屋に丁稚奉公へと出された。
真面目なその男は二十四年間の奉公の末、三十歳の時に家具職人として独立をした。寝食を削りながら築きあげた「尾上家具」は丁寧な仕事をする職人がいる家具屋として代々上田の町で息づくこととなった。
二代目となった尚太郎の父・吉次は初代を凌ぐ職人という賛美の言葉をもらうほどの腕前の男だが、酒を飲むとタチが悪かった。
酔って帰ってくると寝ている子供たちを平気で起こし、持ち帰った土産の寿司を食えと叫び、妻が夜中ですから、子供たちは寝ていますからと懇願しても聞く耳は持たず、それでもしつこく咎めると平手打ちを浴びせた。
尚太郎はそんな父親が嫌いだった。
反抗期に入った尚太郎は心の中で、父さんなんか死んじゃえと祈った。だが大好きだった母親が死んだ。
尚太郎十七才、高校二年生の冬だった。一年前の出来事である。
一周忌の法事を終えたこの夜、尚太郎の気持ちは固まった。
法事の席で叔父たちが自分のことを「三代目」「頼むぞ三代目」「オヤジを越すんだぞ」と言ったとき、この小さな町であの父親の配下で生きていくことは耐えられないと確信をしたのだ。
高校卒業まで残り一ヶ月だ…。逃げるなら今しかない。家出の支度をはじめ、時計を見ると午前四時四十分だ。父親の朝は早い。その前に…。ボストンバックを担ぎ部屋の襖を開けようとしたとき隣室から修二と絵里子の寝言が聞こえ、そっとその部屋を覗き見ると幼い弟と妹は夢の中にいた。
三歳年下の弟と四月に小学六年生になる妹には申し訳ないと思ったが、尚太郎は生まれ育った家から逃げた。
駅の待合室で始発を待ってる時間は恐怖だった。
家出を知った父親が追いかけてくるのではないか、連れ戻されて何発も殴られるのかと想像しただけで右手に握りしめている東京行きの切符が汗で濡れていくのがわかった。
この町に未練がないと言えば嘘だ。楽しい思い出は数え切れないほどある。友人だっている。だが、それらを大切にしたいと思う心が父親の存在によってかき消されていく毎日が辛かった。
尚太郎は物心がついた頃から「尾上の三代目」への線路は決まっていたので幼いながらも自分はそういう人生を歩くものだと信じていた。
中学三年生のときの学校行事の芸術鑑賞会で初めて演劇というものを観た。ひとまえで怒ったり泣いたりする役者たちを観てるだけで、とてつもなく眠くなった。
高校生になった尚太郎はサッカーに夢中となり長野県選抜チームのメンバーに選ばれるほどの実力をつけたが、バイク事故を起こし右足を骨折。当然選抜メンバーからは外され、その上、学校で禁止されていたバイク免許を取得していたことが発覚し、無期停学を言い渡され父親の信頼を失った。
尚太郎を救ってくれたのは明るい母親と底抜けにいい加減だがポジティブ志向の一学年先輩の武雄さんだった。
「よお、東京に行かないか」
「東京ですか?」
「気晴らし、気晴らし」。
武雄は尚太郎の良き理解者だった。
ある時、武雄が言った。「おまえ童貞なんだろ」。東京にいる知り合いの女が相手をしてくれるぞ、と囁いた。その日から東京に遊びに行くまでの時間は毎日が輝き、その日を指折り数えた。前夜となった風呂の中で尚太郎は股間を見つめてエールを送った。
「バイバイ、オレのチェーリー」
待ち合わせ場所の原宿竹下通り改札口にいた奈緒美と呼ばれた女性は美大生で、見るからにハイセンスな東京の女だった。
この人と…。尚太郎は興奮した。
「時間がギリギリなの。行こ」。歩き出した奈緒美に連れて行かれた場所はWORK SHOPという名前の劇場。
「な、なんですか、ここ?」
「劇場。東京キッドブラザーズ、知らない? 彼らが作った劇場、行くよ」
「いや、あの、劇場でするんですか?」。
尚太郎はわけもわからず爆発寸前の股間を押さえながらついていった。
圧巻だった。
「ペルーの野球」という芝居は手を伸ばせば届きそうなステージで、汗をかきながら咆哮する役者たちが美しかった。看板役者の柴田恭兵がキラキラとしていて…。余談だが、このとき尚太郎の斜め後ろの席に座っていた男・水谷あつしはこの二年後に東京キッドブラザーズの研究生となる。
尚太郎は食い入るようにステージを見つめ、芝居の力強さと美しさにグングンと引きこまれた。
(落ち込んでる後輩がいるんで元気づけて欲しい)。
全ては武雄の計らいだったことを観劇後に奈緒美から聞いて、騙された恥ずかしさもあったが、それ以上に武雄に対して感謝の気持ちに溢れた。
母親は尚太郎の話を楽しそうに聞いてくれたが父親は親に内緒で東京に遊びに行った息子を殴った。
「おまえはどこまで心配させれば気がすむんだ。そんなことで三代目を継げるのか」
「勝手に決めないでくれよ、継ぐなんて誰が言った」
売り言葉に買い言葉だった。
再び平手打ちを喰らった。
唇から流れる血を拭いながら尚太郎は考えていた。言葉にしたことで、それまでモヤっとしていた気持ちが晴れたのだ…。
そうなんだ…オレはこの家を継ぎたくないんだ、オレにはオレの人生があり、好きなことをやって生きていきたいんだ。
「好きなことってなに?」。ある日、母親にそう聞かれたときに、答えられなかった。だから…母親のために稼業を継ぐことが自分の人生だと思いこむようにしたのだったが、その四ヵ月後、母親はこの世を去った。前の晩まで普通に話をしていたのに…
あっけないほどあっさりと天国に旅立った。脳の病気だった。
人は突然、人生を終えちゃうんだ…。
尚太郎は喉が枯れるまで泣いた。
この夜。一周忌の法要を終えたときに、父に自分の正直な気持ちを話そうと決めていた。あの日、母親に答えられなかった答えが今なら言える。役者をやりたいと。だが言えなかった。言える空気ではなかった。
法要の席で叔父たちが尚太郎を「三代目」「頼むぞ三代目」「オヤジを越すんだぞ」と冷やかしたとき、父親が嬉しそうに言った言葉に悪寒が走った。
「ハハハ、ああ、がっちりとしごいてやるさ」。
無理だ、無理だよ…。
逃げるしかない。
親不孝? そうだよこれは親不孝だよ。関係ないよ、オレは親の期待を裏切るんだ…。お母さんごめんね。ごめんなさい。
二度と生まれ故郷には帰ってこられない。
弟の修二、可愛い妹の絵里子、ごめんな、ごめんな。
溢れだす涙を何度も拳で拭ってると、待合室に東京行きの汽車の到着アナウンスが響いた。
それは未練を断ち切らせてくれる、希望の声だった。
流れる車窓に郷愁はなかった。
思い出すのは母親の笑顔だけで、母親が大好きで、母親があの家の救世主だった。母の笑顔、明るい母親が尚太郎の救いだった。
車窓は軽井沢駅を過ぎて横川駅に向かっていた。
横川の釜飯食べたいなー。
だが贅沢をするお金は持っていないので我慢をした。
こうして尾上尚太郎の青春がはじまった。
彼が涼風せいらママとして存在するのは、これからの物語である。