4.おっくんという男編
奥平のアパートで尚太郎の面倒をみるという話はトントン拍子に進み、善は急げとばかりに、その夜、尚太郎は奥平のアパートに行くこととなった。
奥平と夜道を歩いてるとき、生前の祖父が、ボケはじめたときに何度も話をしてくれたハナシを思い出した。
昔々、貧しい農家の娘たちは口減らしのために身売りをさせられたんじゃあ、ある娘は丁稚として、ある娘はタダ働き同然で家畜並みの扱いをされ、ある娘は男の相手をする吉原へ。吉原…あゝ死ぬ前に一度は行きたかったなあ。
おじいちゃん、俺はどうなっちゃうんですか?
道中の奥平が無口になっていることが気になっていた。
武雄の部屋では常に楽しそうに喋ったり笑っていた男がなにも言わずに歩いてる姿は尚太郎に異様な怖さを与えた。
「あの…奥平さんの部屋ってどこにあるんですか?」
「おっくんでええよ」
「…。はい、おっくんさんの」
「おっくんでええって」
「………。はい、おっくんの、部屋はどこなんですか?」
「中野じゃ」。無愛想に奥平は答えた。
中野駅は武雄が住む高円寺駅の隣駅だった。切符を買うときも電車に乗ってるときも奥平は無愛想だった。それが不気味さを増した。
中野駅北口の改札を抜けたとき、奥平は口を開いた。
「酒、飲もうか」
「あ、でも、俺、未成年ですし」
「フフ、じゃけぇ? まさか飲んだことないなんて言うんじゃないじゃろうな、ガタガタ言わんでつきあえや」
大衆居酒屋はサラリーマンと学生たちで賑わっていた。
店内の片隅の席でコップに瓶ビールを注いでもらいながら尚太郎は思い出していた。
高校一年の夏休み、友人たちとキャンプに行き悪ぶって酒を飲んだときのことだった。一分もしないうちに顔がうわあ〜と真っ赤になったと思ったら次に身体中が熱くなり、着ていた洋服を全部脱いでしまった尚太郎を見ていた友人たちが「わあーっ」と慌てて尚太郎をテントに担ぎこんだ。大量の水を飲まされ、ハアーハアーと荒い呼吸をしながら横になってたときに、酒は毒だと思った。
普段は黙々と職人をしてる父親が酒を飲むと気が大きくなり、家族に手をあげるのはあの液体が原因なのだ。自分には父親の血が流れている、この味を覚えることは毒だと知り、俺は永遠にお酒は飲まないと決めたのに、今、グラスにビールを注がれている…。
どうしよう…断りたいのに断れない…どうしよう…こんなものを飲んであのときみたいに真っ裸になったら…。あれ?
そうだ、この人、俺のホッペにチューをしたんだ…どっちなんだ? もしそっちの人なら…裸になるのは危険だ、まずいって、考えるんだ、考えろ、うまい言い訳を考えなきゃ…
と知恵を絞りだそうとコップの中の気泡を眺めていると、奥平の手がゆっくりと伸びてきて尚太郎の手に触れた。
尚太郎はヒッと奥平を見た。
奥平は尚太郎をじーっと見つめ、ニタリと唇を舐めている。
あゝこの人はやはりそうだったんだ…尚太郎は確信をした。
頬のキスは寝ぼけていたんじゃなく本気だったんだ。助けてください、誰か助けてください、そう願っても声が出なかった。
「わしが怖いんじゃろ?」
顔をあげてテーブルの向かい側の奥平を見ると、奥平は泣き出しそうな尚太郎の顔を見てケタケタと笑い出した。
奥平は、突然無口になったこと、強面の男や、男をスキな男になりすましたこと、これらの行動の全てが武雄の部屋を出てからのゲームだと教えた。
からくりが分かった尚太郎は「本気で泣きそうだったんですからねー」と泣きそうな気持ちを抑えながら笑顔を見せたが、奥平は話しをつづけた。
「尚太郎。キミが本気で家出をするというのなら独りで生きていくということなんじゃ。イヤなこたぁイヤじゃ言えるかどうか、こりゃ大きなことなんじゃ。この世の中にゃあいろいろな奴がおる。悪い奴も多い、だけどそがいな野郎から守ってくれる親はおらんということじゃ。われは親を捨てたんじゃ、わかるか?家出をするというこたぁそがいなことなんじゃぞ、さよならお父さんじゃ。その覚悟はできとるのか? わしゃそのことを聞きたいんじゃ」
「はい…」。尚太郎は答えた。
「そうか…われは凄いな、家を捨てるんじゃぞ、普通はできんぜ」
この夜、大衆居酒屋で奥平が言った言葉が脳裏から離れなかった。
最近流行りのワンルームマンションが奥平の部屋だった。
鉄扉で閉ざされた玄関横には三畳ほどのキッチンがあり、そこの背面の扉奥には洋式のトイレと風呂が収納されたユニットバスが備えられている。六畳ほどの広さの部屋にはベッドと最新式のテレビとVHSのビデオデッキが揃っていた。
武雄とは真反対の金持ち学生の部屋だった。
家賃も家電も全て親に甘えていると奥平は言った。
「だってよ、わしゃ自分の夢を持てることのう家業を継いじゃるんじゃけぇさ、じゃけぇ甘えられるうちは甘えるって決めたんじゃ。わしゃ田舎のボンボンさ」
自虐的に笑った奥平がポツリと呟いた。
「じゃけぇ、夢を語れる奈緒美さんたちがとてつものう羨ましいんじゃ」
そして尚太郎に言った。
「尚太郎、好きなだけここにおってええけぇな。われも夢をつかまえろよ」