60.明日はそこにあるはず 29話

 ガッキーこと新垣実の口癖は「このカンパニーに参加できて本当に勉強になる」、だった。三十五才となった男は将来を真剣に考える年齢になってきたな、と思っていた矢先に今回の仕事に参加した。

 芸能界に興味を抱いたのはレコード会社に勤めていた父親の影響だった。青年になったとき、臆することなくこの世界へと飛びこんだのだが、この二年間、全くの他人を演じることへの楽しみが薄れてきていた。いろいろな現場に呼ばれることは嬉しいことではあるが三十を過ぎたあたりから注意をしてくれる人が極端に減ったことで、自分自身が納得していない芝居に対しても「イイねー」と言われていることに不安を感じていたのだ。

 だが、この現場では演出家から罵詈雑言を浴びせられ、周りの役者たちについていくことに精一杯の時間は懐かしい感覚であり、新鮮だった。なによりも自分より年上の役者たちが汗だくとなって踏ん張ってる姿には心を打たれた。

 休憩時間になると稽古場の片隅でハアハアと息を整える毎日が続き、そのときに役者やスタッフたちの会話に自然と耳を傾けることを覚えてしまった。なにかを盗みたいという一心からの盗み見、盗み聞きをする癖がつき、気づけばカンパニー随一の情報屋となっていた。

 今日も終演後の楽屋で耳を澄ましていると小声で会話をしているアクア九条と涼風の言葉が聞こえてきた。今夜の芝居の反省でも話し合ってるのだろうか…。メイクを落としながら耳をそばだてていると、話の内容はチケットのことだとわかってきた。

「なんでも、涼風さんはおんなじ人の名前で全公演分のチケットを一枚づづ確保しているらしいんだよ。で、で、で、ここからが問題で、その名前の人、今までの涼風さんの舞台でもずーと予約が入ってるんだけど一度も観にきたことがないらしいんだよ、ハイ特ダネでしたー」

「え? どういうことですか?」、アロハは首を傾げた。

「そのへんの詳しいことはまったくわかんない。アクアさんが制作部屋で盗み聞きして、それを俺が今盗み聞きました、ハイ現場からは情報以上です、スタジオに返しまーす」

 したり顔のガッキーは才蔵とアロハ・オギクボにウィンクをした。

 ダンと机が叩かれた。

「いい加減にしてよ、ドケチ」

 アクア九条は悔しそうに吐き捨てると荷物をまとめて楽屋を出て行ってしまった。

 オカダ三太がやんわりと涼風に話しかけた。

「涼風ちゃんさ、誰なのよ? その人? 来るかこないかわからない人のチケットって…」

 涼風は思い出していた。

 あの日の奈緒美を。

 彼女がいたから今の自分がいるのだ。

 だが、恩人の奈緒美は今の涼風せいらの舞台を一度も観に来てくれていなかった…。

【つづく】

令和2年6月29日