5.悲しみの卒業式編
上京して三週間と五日が過ぎた。
尚太郎は工事現場でネコと呼ばれる一輪車に砂利を運んだり、ツルハシで土を掘り起こす仕事をしていた。日本全国に土地神話が生まれ、東京はマンション建設ラッシュに沸き、予備校生と偽った履歴書で、この日雇いのバイトに潜りこんでいた。
尚太郎にとって奥平の言葉は言霊だった。
「夢を語るなぁええことじゃ思う。夢を手にするために行動を起こすこたぁ最高のエネルギーじゃ思う。じゃけぇ他人の夢のために助けてくれる人はおらん思うたほうがええ」
尚太郎は夢のための第一歩として金を貯めようと考えたのには奥平のその言葉が大きかった。自分には頼れる人がいないので生活費を求めてこのバイトをはじめることにした。ネコを動かすのに苦労をしたのは最初の二日ほどで、コツがわかればなんてことはなかった。現場の職人たちからは、おっ兄ちゃんセンスがいいなーと冷やかされて調子に乗った。日当八千五百円は夢のような金額でこの日、仕事終了と同時に親方から本日までのバイト代十八万円を手にした。
夢のような大金だった。
生活費以外にもうひとつの使い道を決めていた。おそらく奥平はイヤがると思うが、住まわせてくれているお礼として三万円を手渡したいと考えていたのだ。そのとき、奥平はどんな顔をして、なんて言うのだろうか?想像するだけで楽しくなった。いそいそと帰り支度をすませた尚太郎は茶封筒を大切そうにパンツとお腹の間に隠すと颯爽と工事現場を後にした。
その姿を二人の男が盗み見ていた。
尚太郎は気が大きくなっていた。
お金を持っているというだけで心に余裕が生まれていたのかもしれない。
工事現場は新宿南口を出て、目の前の甲州街道を初台方面に向かって十分間ほど歩いたところにある建設中の地上15階建てのマンションだった。新宿への満員電車や、歩道をスタスタと急くように歩く人間のスピードにも慣れはじめていた。俺はこの街で、東京で、働いているんだ、新宿のあのマンション建設をやっているんだ、一階のエントランス部分の担当は俺なんだぞ、そしてお金を稼いだんだぞーと誰かに自慢したい気持ちだった。
高校中退の俺が十八万円稼いだんだぞー。
空に向かって叫びたかった。
バイトを終えてのいつもの帰り道、新宿南口へ向かって歩いてるとき目に映った夕焼けに染まりかけた雲に、フト、弟の修二と妹の絵里子を思い出した。
俺がいなくなって、あの二人はどうしているのだろうか。
父親に怒鳴られていないだろうか。
二人のことを思うと涙が溢れてきた。
この金で何かを買って送ってあげようかな、なにがいいかな、なにをあげたらあの二人は喜ぶのかな。幼い弟妹の顔が雲から離れない。
そのとき、いつもと違う行動をとってしまったのだ。プレゼントを買ってあげたいと思い、脇道に入った。確かこの道を通れば京王デパートへの近道だと思いこんだ道は見慣れない風景で歩けば歩くほど迷路となり、さまよってしまった。
ここはどこだ? 薄暗い路地を引き返そうとしたときだった。
突然、背後から羽交い締めにされると顔にタオルが巻かれた。一瞬何が起こったのか尚太郎に理解できなかった。
だが次に洋服をガッとめくられ、パンツの中に隠していた茶封筒を奪われたときに、あ、襲われていると認識した。
羽交い締めされていた両手を振りほどき顔面を覆われたタオルを剥ぎ取り、このやろと後ろを振り返った途端、拳で顔面を殴られ、うう、とうずくまった。
歩道に大量の鼻血が滴り落ちていく。
顔を押さえた指の隙間から走り去る二人の男たちの背中が見えた。そして何人かの通行人たちの我関せずに歩く姿も…。
誰も助けてくれなかったのか…。
これが東京か…。
惨めだった。
悔しかった。
帰宅した尚太郎を奥平が大変心配した。
鼻が折れているかもしれないので病院に行こうと言ってくれたが、保険証がありませんと言うと奥平は保険証を貸してくれて病院へと付き添ってくれた。
投影盤に写ったレントゲン写真を見た医者が「奥平さん良かったね、折れてませんよ。だけど安静にしておかないと鼻が曲がったままになるよ」、と忠告をした。
その夜、奥平からの連絡を受けた武雄と奈緒美たちが奥平の部屋に駆けつけてくれたが、鼻骨の痛みで会話することもできなかった。いや、本心は話をしたくなかった。あのときの浮かれていた自分を恨み、そして白昼堂々と給料袋を奪った連中と、それを見ていて助けようとしなかった連中が許せなく…。奥平が以前言ってくれた言葉が胸に響いていた。
「この世の中にゃあいろいろな奴がおる。悪い奴も多い、だけどそがいな野郎から守ってくれる親はおらんということじゃ」
もし、これが長野県の上田での出来事だったら、父親はあの二人を見つけだして、どんな成敗をしたのだろうか。だけど今の自分には…。こんなときに父親の存在を頼りにしている自分が情けなかった。
痛みと悔しさと悲しさで涙がこぼれた。
犯人はあいつらだ。大学生のバイトの二人。職人たちの目を盗んではサボってばかりいるあの二人だ。顔を殴られたときに鼻を押さえた指の隙間から逃げていく二人の背中に見覚えがあった。小太りとひょろ長の男、あいつらだ。そして何よりも動かない証拠は顔を覆われたこの手ぬぐいだ、小太りの男が昨日、首に巻いていたものだった…。
絶対に許せない。
鼻の痛みは消えなかったが尚太郎は翌日、バイト先へと向かった。
「今週いっぱいは休んだほうがええって」
玄関で靴を履いてる尚太郎に奥平が心配そうに言葉をかけたが「大丈夫です」と新宿の建設現場に急いだ。歩くたびに鼻骨が呻いた。その痛みが尚太郎を怒らせていたのだ。
作業員たちは建物内のプレハブ小屋や物陰で各々作業服に着替えるのだが尚太郎は着替えることなく「犯人」を探して歩いた。どこだ、どこにいるんだ、小太りの男とひょろ長の男はどこだ…。
尚太郎を殴り給料袋を奪った二人の大学生は完成間近の二階の角部屋でタバコをふかしながらバカ話をして笑いあっていた。
「昨日の焼肉、むちゃくちゃに美味かったなー」
「今日はどうするよ? なにを食う?」
「服、買おうぜ。池袋のパルコ、どう?」
「いいねーオレら今月は大名だな、ハハハ」
それらの会話を物陰で聞いていた尚太郎が通路に転がってた24インチのパイプレンチを握るとスッと二人の前に立った。
「俺の金を返せよ」
犯人たちは尚太郎をじっと見た。
尚太郎は証拠のタオルを床に放った。
「返せよ」
犯人たちは尚太郎を睨み見ながらゆっくりと立ちあがった。
「返せって」
犯人たちは弁明をするわけでもなく一言も発することなく、左右に分かれて尚太郎を挟むように立ち、その場を支配した。その動きは喧嘩慣れをしている二人だった。
「返してください」、尚太郎の言葉が弱々しくなる。
小太りの男は腰に巻いてるガチ袋から金槌を取り出し、ひょろ長は釘抜きを握ると自分の肩の高さまでかざし、尚太郎を睨みつけながら、おめえがそのレンチを振り上げたらオレらは躊躇なくいくぜ、そんな凄みをみせた。
「レンチを床におけ」。小太りの男が低く唸った。
「…」
「知らねえぞ、どうなっても、ケンカふっかけてきたのはおめえだぞ、おけよ、コノヤロ」。ひょろ長が笑った。
「お金を返してください」
尚太郎は泣きそうな声で懇願した。
「僕のお給料です、お願いします、返してください」
床に膝をつき、頭を下げてお願いをした。なぜだ、どうして金を奪った連中に俺は頭を下げているんだ…道理が合わない、だが、これしか思いつかなかった。こいつらには喧嘩では勝てない、勝てるわけがない、それならば情に訴えるしかない、お願いをするしかないのだ。
小太りの男がゆっくりと腰を落とすと尚太郎に優しく囁いた。
「だったら警察に行けよ、ボク、お金を取られました、家出してきたボクのお金を取られましたってよ、ケケケ」
尚太郎は笑い合う二人の顔を見た。
知っているんだ…自分の過去を。
「オイ、家出少年、警察には秘密にしてやるから二度と俺らの前に現れんな」。男たちは腹を抱えて笑い、小太りが「慰謝料だ」と尚太郎の口に千円札を突っこむと、タオルを拾いあげて出て行った。
何も言い返せなかった。
何もできなかった。
家を捨て、親を捨てて生きるということの現実を知った。
悔しくて悔しくて喉の奥で静かに泣くことしかできなかった。
この日は長野県上田にある尚太郎が通っていた高校の卒業式だった。
尚太郎が卒業生扱いとして卒業アルバムに参加できたのは父、吉次が学校に何度も頭を下げて退校処分を免れたおかげだった。このことを尚太郎が知るのは五年後である。